LOGINシア様が初めてヴァレンティ家へいらしたのは、ローレン家を訪ねてから四日後の、よく晴れた午後だった。
「お体は大丈夫ですか。無理はなさらないでくださいね」 「今日は朝から、とても調子がいいんです。母には、エレナ様に焼き菓子を習いに行くと言ったら、喜んで送り出してくれました」 馬車から降りたシア様は、淡い水色の外出着を着ていた。ショールを羽織っていない姿を見るのは、初めてだった。 厨房に案内すると、料理長が目を白黒させた。侯爵家の令嬢と子爵家の令嬢が並んで前掛けをつける光景は、さすがに見たことがなかったらしい。 「本日は、私どもは手を出さないほうがよろしいので?」 「ええ。見ていてくださるだけで大丈夫よ」 料理長はしぶしぶ、けれどどこか楽しそうに、厨房の隅の椅子に腰を下ろした。 最初に作るのは、いちばん簡単な、バターの焼き菓子にした。 「バターは、指で押してすっと沈むくらいまで柔らかくしておくんです。砂糖を入れたら、白っぽくふわっとなるまで混ぜて」 「こう、ですか」 シア様は真剣な顔で木べらを動かした。腕に力が入りすぎて、ボウルがかたかたと揺れる。 「もう少し、ゆっくりで大丈夫ですよ。急がなくても、ちゃんと白くなりますから」 私はシア様の後ろに回って、木べらを持つ手にそっと手を添えた。母に初めて教わったときも、こうしてもらった。 「……本当だわ。色が、変わってきました」 「ね。ここが、いちばん楽しいところなんです」 粉を振るって、卵を少しずつ足して、生地をまとめる。シア様は一つひとつの手順を、口の中で小さく繰り返していた。 型で抜いた生地を天板に並べ終えると、シア様は粉で白くなった自分の手を、不思議そうに眺めた。 「自分の手で何かを作るなんて、初めてかもしれません」 「刺繍は? 貴族の令嬢は、みんな習うでしょう」 「熱を出すと、針を持つ手が震えてしまって。母が、危ないからやめなさいと」 シア様は少し笑った。 「ずっと、何もしないことが私の仕事だったんです。寝ていること。熱を出さないこと。人様にご迷惑をかけないこと」 窯から、バターの焼ける甘い匂いが漂いはじめていた。 「シア様」 「はい」 「焼き上がるまで、お茶にしましょう。焼き菓子は、待っている時間もおいしさのうちなんです」 シア様は目を瞬かせて、それから、ふわりと笑った。 焼き上がった焼き菓子は、少し形がいびつだったけれど、ちゃんときつね色をしていた。 シア様がひとつ口に入れて、目を丸くする。 「……おいしい」 「シア様が焼いたんですよ」 「私が」 シア様は焼き菓子をじっと見つめて、それから両手で頬を押さえた。耳まで赤くなっている。 「母に持って帰ってもいいかしら。それから、侍女たちにも」 「もちろんです。たくさん焼きましたから」 厨房の隅で、料理長が満足そうに頷いていた。 包みを作っていると、執事が厨房の入口に顔を出した。 「お嬢様。ノーラン様がお見えです」 「ルカが?」 振り返ると、執事の後ろに、黒い外套の背の高い姿が立っていた。手には、見覚えのある籠を提げている。 「昨日、これを忘れていったから」 「まあ、わざわざ。明日でもよかったのに」 「通り道だったんだ」 魔術院からヴァレンティ家は、王都のちょうど反対側にある。通り道ではないと思う。 ルカは厨房を見回して、前掛けをつけたシア様に気づき、わずかに目を見張った。 「ローレン嬢。失礼しました。お客様がいらっしゃるとは知らず」 「いいえ。初めまして、ノーラン様。お噂は、かねがね」 シア様が丁寧に礼をすると、ルカは何とも言えない顔をした。噂の中身に心当たりがあるのだろう。 「ルカ、ちょうどよかったわ。焼き菓子、シア様と一緒に焼いたの。ひとつどう?」 私は天板からいちばん形のきれいなものを選んで、ルカの口元に差し出した。両手が粉だらけで、包みに入れる余裕がなかったのだ。 ルカは一瞬固まった。 それから、ためらうように身をかがめて、私の指先から焼き菓子を口で受け取った。 「……おいしいよ」 「シア様が生地を混ぜてくださったのよ」 「そう。ローレン嬢、お上手ですね」 「ありがとうございます」 ルカはそれだけ言うと、籠を作業台に置いて、「仕事に戻る」と足早に厨房を出ていった。 外套の裾が翻るのを見送りながら、私は首を傾げた。来たばかりなのに、ずいぶん忙しない。 隣で、シア様が小さく咳払いをした。 帰りの馬車を待つあいだ、シア様と並んで、玄関前の石段に腰掛けた。 秋の夕暮れは早い。庭の木々の影が、長く伸びていた。 「エレナ様」 「はい」 「ノーラン様は、通り道だとおっしゃっていましたね」 「ええ。本当は、反対方向なのだけれど」 シア様は膝の上で焼き菓子の包みを抱えたまま、私の横顔を見つめた。 「エレナ様は、ノーラン様のことを、どう思っていらっしゃるの?」 「ルカのこと? 大切な幼なじみよ」 すぐに答えられた。本当のことだったから。 けれど、口にしたあとで、胸の奥がほんの少しだけ、ちくりとした。 大切な幼なじみ。間違ってはいない。それなのに、言葉が足りないような気がした。何が足りないのかは、わからなかった。 「……そう」 シア様はそれ以上何も聞かずに、静かに微笑んだ。 「エレナ様。また、焼き菓子を教えてくださいね」 「ええ。次は、ルカの好きな蜂蜜のを」 言ってから、どうしてそこでルカの名前が出たのだろうと思った。 シア様は、何も言わなかった。ただ、さっきよりも少しだけ、優しい目をしていた。王宮から秋の夜会の招待状が届いたのは、シア様に焼き菓子を教えた三日後のことだった。 収穫祭を祝う、年に一度の大きな夜会だ。王家の方々はもちろん、国中の貴族が集まる。婚約者のいる令嬢は、その相手にエスコートされて出席するのが決まりだった。 招待状と一緒に、王家の紋章入りの大きな箱がひとつ届いた。 居間で蓋を開けると、中には目の覚めるような青いドレスが畳まれていた。胸元から裾まで、銀糸の刺繍がびっしりと施されている。 「まあ、きれい」 添えられたカードには、殿下の角ばった文字でこう書いてあった。 『夜会当日は、これを着て、俺の傍を離れるな』 「殿下が贈り物をくださるなんて、初めてだわ」 私がカードを眺めていると、後ろからお父様が覗き込んで、低く唸った。 「殿下の瞳の色か」 「そうなのですか?」 「誰の婚約者か、一目でわかるようにということだろう」 お父様は鼻を鳴らして、ドレスの裾を指先でつまんだ。 「……生地はいいが、お前の肌には少し強すぎる色だな」 「お父様、せっかくの贈り物ですのに」 「わかっている。わかっているとも」 お父様はそれ以上何も言わず、ドレスの箱をミナに預けて、書斎に戻っていかれた。 ミナは箱を抱えたまま、ドレスをじっと見下ろしていた。 「お嬢様。この刺繍、たいそう重そうでございますね」 「そうね。踊るときに、裾をうまくさばけるかしら」 「……殿下は、お嬢様と踊るおつもりなのでしょうか」 「どうかしら。シア様のお加減次第ね」 ミナは何か言いたげに口を動かしたけれど、結局、黙って箱の蓋を閉じた。 翌日、魔術院の廊下はいつになく慌ただしかった。 若い魔術師たちが、光る石の詰まった木箱を抱えて行き来している。夜会の会場を照らす魔法灯と、王宮全体を守る結界の準備なのだと、顔なじみになった魔術師のひとりが教えてくれた。 「ノーラン様が、結界の総責任者なんです」 フェリクスという名のその人は、くせのある赤毛をかき上げて、少し声を落とした。 「ヴァレンティ様。差し出がましいようですが、ひとつだけ」 「はい」 「ノーラン様、ここ数日、ほとんど寝ていないんです。魔力の調子もよくなくて、院長からは夜会の担当を外れて休むように言われたんですが」 「まあ。それなら、休まなければ」 「本人が、どうしても自分でやると。
シア様が初めてヴァレンティ家へいらしたのは、ローレン家を訪ねてから四日後の、よく晴れた午後だった。 「お体は大丈夫ですか。無理はなさらないでくださいね」 「今日は朝から、とても調子がいいんです。母には、エレナ様に焼き菓子を習いに行くと言ったら、喜んで送り出してくれました」 馬車から降りたシア様は、淡い水色の外出着を着ていた。ショールを羽織っていない姿を見るのは、初めてだった。 厨房に案内すると、料理長が目を白黒させた。侯爵家の令嬢と子爵家の令嬢が並んで前掛けをつける光景は、さすがに見たことがなかったらしい。 「本日は、私どもは手を出さないほうがよろしいので?」 「ええ。見ていてくださるだけで大丈夫よ」 料理長はしぶしぶ、けれどどこか楽しそうに、厨房の隅の椅子に腰を下ろした。 最初に作るのは、いちばん簡単な、バターの焼き菓子にした。 「バターは、指で押してすっと沈むくらいまで柔らかくしておくんです。砂糖を入れたら、白っぽくふわっとなるまで混ぜて」 「こう、ですか」 シア様は真剣な顔で木べらを動かした。腕に力が入りすぎて、ボウルがかたかたと揺れる。 「もう少し、ゆっくりで大丈夫ですよ。急がなくても、ちゃんと白くなりますから」 私はシア様の後ろに回って、木べらを持つ手にそっと手を添えた。母に初めて教わったときも、こうしてもらった。 「……本当だわ。色が、変わってきました」 「ね。ここが、いちばん楽しいところなんです」 粉を振るって、卵を少しずつ足して、生地をまとめる。シア様は一つひとつの手順を、口の中で小さく繰り返していた。 型で抜いた生地を天板に並べ終えると、シア様は粉で白くなった自分の手を、不思議そうに眺めた。 「自分の手で何かを作るなんて、初めてかもしれません」 「刺繍は? 貴族の令嬢は、みんな習うでしょう」 「熱を出すと、針を持つ手が震えてしまって。母が、危ないからやめなさいと」 シア様は少し笑った。 「ずっと、何もしないことが私の仕事だったんです。寝ていること。熱を出さないこと。人様にご迷惑をかけないこと」 窯から、バターの焼ける甘い匂いが漂いはじめていた。 「シア様」 「はい」 「焼き上がるまで、お茶にしましょう。焼き菓子は、待っている時間もおいしさのうちなんです」 シア様は目を瞬かせて、それから、ふわり
エレナが帰ったあとの部屋は、いつも少しだけ広く感じる。 机の端には、彼女が置いていった薬草茶の包みと、蜂蜜の焼き菓子がふたつ。今日は来るのが遅かったから、ひとつ分けて食べたきり、残りは明日の朝にと言われた。 僕は椅子の背にもたれて、窓辺に浮かぶ青い石を眺めた。 ひとつ、またひとつと、わずかに軌道がぶれている。 魔力の流れが乱れているのは、自分がいちばんよくわかっていた。原因も。 「ローレン家の門の前で、殿下とお会いしたの」 今日の夕方、エレナはいつもの椅子に座って、ひどく楽しそうにそう言った。 シア嬢の見舞いに行って、帰りに殿下と鉢合わせて、「ルカのところへ参ります。殿下に教わりましたので」と言って出てきたのだと。 僕は頭を抱えたくなるのを、どうにかこらえた。 彼女には悪意がひとかけらもない。だからこそ、言われた側には逃げ道がない。殿下の顔がどんな色になったか、見なくても想像がついた。 「エレナ。あまり殿下を追い詰めないほうがいい」 「追い詰める? 私は、殿下のお言葉をお守りしているだけよ」 「わかってる。わかってるけど、君の評判が」 「評判なら、皆さん、楽しそうに私の言葉を使ってくださっているわ。ミナが教えてくれたの」 そう言って笑う顔があんまり無邪気だったので、僕はそれ以上何も言えなくなった。 いつもそうだ。彼女の前では、言うべき言葉がひとつも出てこない。 エレナと初めて会ったのは、僕が十歳の冬だった。 その頃の僕は、一年の半分を寝台の上で過ごしていた。体に収まりきらない魔力が熱になって、額から胸から、内側を焼いた。医師は、成長すれば落ち着くと言った。落ち着く前に体が持つかどうかは、誰にもわからないとも。 隣の屋敷の小さな女の子が、母親に手を引かれて見舞いに来たのは、そんな夜が続いていた頃だった。 六歳のエレナは、真っ黒に焦げた焼き菓子を、大事そうにハンカチに包んで持ってきた。 「お母様に教わったの。初めて焼いたのよ。少し、焦げちゃったけど」 少しどころではなかった。ひと口かじると、苦くて、粉っぽくて、ひどい味がした。 でも、彼女がじっと僕の顔を見ていたから、全部食べた。 「おいしい?」 「……うん」 次の日も、その次の日も、エレナは来た。焼き菓子は少しずつ焦げなくなって、そのうち、ちゃんとおいしくなった。熱で
ローレン子爵家のお屋敷は、王都の西の外れにあった。 こぢんまりとした二階建てで、門から玄関までの小道には、手入れの行き届いた鉢植えが並んでいる。壁の漆喰は少し古びていたけれど、窓という窓がきれいに磨かれていて、住んでいる人たちの丁寧さが伝わってきた。 籠の中には、シア様のために焼いたレモンの焼き菓子と、ルカの部屋にも持っていっている薬草茶の葉を少し。熱の多い方には、喉にやさしいものがいい。 出迎えてくださったのは、ローレン子爵夫人だった。 「まあ、ヴァレンティ侯爵家のお嬢様に、わざわざ足を運んでいただけるなんて」 夫人は私の手を両手で包んで、何度も頭を下げた。その目が、私の後ろの侯爵家の馬車と、私の着ている外出着の刺繍を、すばやく行き来したのがわかった。 「娘も、きっと喜びますわ。殿下もよく、あの子のところへお越しくださるのですけれど――」 「お母様」 階段の上から、細い声がした。 「お客様をお待たせしないで」 シア様のお部屋は、二階の日当たりのいい角部屋だった。 長椅子に掛けたシア様は、肩に厚手のショールを羽織っていた。夜会で見たときよりも、さらにほっそりして見える。けれど顔色は思っていたより悪くなくて、私は少しほっとした。 「ようこそお越しくださいました、ヴァレンティ様。お呼び立てして、申し訳ございません」 「エレナで結構です。お加減はいかがですか」 「今日は、ずいぶん楽なんです」 シア様は微笑んで、私に向かいの椅子を勧めてくださった。侍女がお茶を運んできて、部屋を出ていく。扉が閉まると、シア様はショールの端をぎゅっと握った。 「エレナ様。まずは、お礼を。あのレモンのお菓子、本当においしかったです」 「よかった。今日も焼いてきたのです」 籠を差し出すと、シア様は目を丸くして、それから両手でそっと受け取った。 「……こういうものをいただくのは、久しぶりです」 「お見舞いのお品は、たくさん届くのではありませんか」 「花やお薬は。でも、手作りのものは」 シア様は籠の蓋を撫でながら、ぽつりと言った。 「子どもの頃から、熱を出してばかりで。学院にもほとんど通えなかったので、お友達と呼べる方がいないんです」 私は少し考えて、薬草茶の包みも差し出した。 「これは、熱のあるときに飲むお茶です。カモミールと、レモンバームと、薄荷
公爵夫人の茶会から三日が経った朝、私は屋敷の裏庭で、冬に向けて薬草の株を植え替えていた。 カモミールと、レモンバームと、薄荷。どれもルカの部屋に持っていくお茶の材料だ。土の具合を確かめながら根を広げていると、ミナが洗濯籠を抱えたまま、妙に神妙な顔でやってきた。 「お嬢様。少々、お耳に入れておきたいことが」 「なあに?」 「市場で、おかしな言い回しが流行っているそうなのです」 ミナは籠を地面に置いて、声を落とした。 「今朝、出入りの八百屋のおかみさんが申しておりました。旦那さんが、酒場の仲間との約束を優先して、娘の誕生日の食事をすっぽかしたそうで」 「まあ、かわいそうに」 「それで、おかみさんは次の日、旦那さんの夕飯を作らずに実家に帰ったそうです。『旦那様に教わりましたので』と書き置きを残して」 私は移植ごてを持ったまま、瞬きをした。 「……それは、どういう意味なの?」 「公爵夫人の茶会でのお嬢様のお言葉が、もう街まで広まっているのです。昔馴染みを優先するのが当然なら、こちらもそうさせていただきます、という意味で」 ミナの口の端が、ほんの少し持ち上がっている。 「仕立て屋の奥様も、商会の若奥様も、皆さま使っておられるとか。ご亭主が言い返せなくなるので、たいそう重宝されているそうですよ」 「皆さん、勉強熱心なのね」 「……ええ、本当に」 ミナはなぜか、空を見上げて肩を震わせた。 殿下がいらしたのは、その日の昼過ぎだった。 先触れもなく、ヴァレンティ家の玄関に王家の馬車が止まったので、執事が慌てて私を呼びに来た。土で汚れた手を急いで洗い、応接間に入ると、殿下は座りもせずに窓辺に立っていらした。 「エレナ」 振り向いた殿下の目の下には、うっすらと隈があった。 「ようこそおいでくださいました。お茶をお持ちしますね」 「いらない。話がある」 殿下は大股で近づいてきて、私の前で足を止めた。 「街で、妙な言葉が流行っているのを知っているか」 「はい。今朝、ミナから聞きました」 「兄上にまで言われた。お前は婚約者に何を教えているんだ、とな。母上は何もおっしゃらないが、目を合わせてくださらない」 殿下は苛立たしげに髪をかき上げた。 「あれは、そういう意味で言ったんじゃない」 「では、どういう意味だったのでしょう」 私は本当に
茶会の当日、殿下は約束の時刻ぴったりに、ヴァレンティ家の玄関へいらした。 釦はすべて留まっていて、髪も整えられている。私の手を取って馬車に乗せてくださる仕草は、婚約したばかりの頃のように丁寧だった。 「今日は、シア様のお加減はよろしいのですか」 「ああ。……今日は、君との約束だからな」 殿下はそう言って、窓の外に目を向けた。どこか得意げな横顔だった。 私は膝の上で手を重ねて、心の中で時間を数えた。ルカの魔力調整は、三つ目の鐘が鳴る頃から始まる。茶会が始まるのは二つ目の鐘。少しだけなら、ご挨拶をしてから出られるはずだ。 マルグリット公爵夫人のお屋敷の庭には、秋咲きの薔薇が見事に咲き揃っていた。 長いテーブルには十人ほどの夫人や令嬢が並び、焼き菓子の甘い香りが漂っている。 「まあ、殿下。ヴァレンティ嬢も。ようこそいらしてくださいました」 白髪をきれいに結い上げた公爵夫人が、扇を傾けて微笑んだ。この方は社交界でいちばん耳が早いと、王子妃教育の先生がおっしゃっていた。 殿下と並んで席につくと、向かいの伯爵夫人が身を乗り出した。 「お二人が揃っていらっしゃるのは、久しぶりですわね」 「最近、殿下はローレン嬢のお見舞いでお忙しいと伺っておりましたけれど」 くすくすと笑い声が漏れる。殿下の肩が、わずかに強張った。 「シアは幼なじみだ。体が弱いのだから、気にかけるのは当然だろう」 「ええ、ええ。殿下はお優しくていらっしゃるから」 扇の陰で交わされる目配せの意味は、私にはよくわからなかった。 お茶を一杯いただいて、公爵夫人のお庭の薔薇をひととおり褒めた頃、遠くで三つ目の鐘が鳴った。 私はカップを置いて、静かに立ち上がった。 「公爵夫人。たいへん申し訳ございませんが、私はこれで失礼いたします」 テーブルの会話が、ぴたりと止まった。 「まあ。何かご用事が?」 「はい。幼なじみのルカ・ノーランが、今日の午後に魔力の調整を受けるのです。付き添うと約束しておりますので」 「ノーラン……宮廷魔術師の?」 「はい」 隣で、殿下が勢いよく顔を上げた。 「待て、エレナ。今日は俺がエスコートしているんだぞ」 「はい。ここまで送っていただいて、ありがとうございました」 「そういうことではない。婚約者を置いて、他の男のところへ行くつもりか」 声が大